潮の香りと石炭の煤が混じり合う港町、ポート・アルカディア。空には蒸気機関を積んだ飛行船が煙を吐きながら飛び交い、海には優美な帆船と無骨な鉄の蒸気船がひしめき合っている。ここは、富と名声を求める海の冒険家たちが集う、時代の最前線だった。
そんな活気あふれる町の裏側で、フィン・ウォーカーは、錆びついた錨のようにくすぶっていた。十八歳。酒場の用心棒まがいの仕事で日銭を稼ぎ、喧嘩と安酒に明け暮れる毎日。彼の父は、かつて「海の隼」とまで呼ばれた伝説の冒エンターテイナーだったが、十年前に海で消息を絶った。偉大すぎた父の存在は、フィンにとって誇りではなく、重苦しい鎖となっていた。
「おいフィン、また親父さんの話か? いつまで過去に囚われてるんだ」 酒場の仲間が囃し立てる。フィンは何も言い返さず、ただグラスの濁った酒を呷った。彼の懐には、父が死の間際に残したとされる、羊皮紙の海図が一枚、常にしまわれていた。暗号のような図形と、未知の言語で書かれたそれは、普通の海図とは似ても似つかない。伝説の「天空の島 アヴァロン」への地図だと噂されたが、フィンにとっては、父の狂気と死を象徴する、忌まわしい遺産でしかなかった。
その夜、フィンが波止場を歩いていると、倉庫の影から一人の少女が飛び出してきた。年は十七、八か。日に焼けた肌に、異国の意匠が施された簡素な服をまとい、その首には、青く淡い光を放つ不思議なペンダントが揺れていた。少女は、何者かに追われているようだった。
「お願い、助けて!」 少女が悲鳴を上げた直後、屈強な船乗り風の男たちが数人、暗がりから現れた。その腕には、黒いカラスを象った刺青。悪名高い武装商船団「レイヴン・フリート」の紋章だ。 「小娘、大人しくサイラス様のとこへ来い。お前のそのペンダントが必要なんだ」 男たちが下品な笑みを浮かべ、少女に手を伸ばす。フィンは、面倒はご免だと立ち去ろうとした。だが、少女の恐怖に満ちた瞳が、彼の足を引き止めた。ちっ、と舌打ち一つ。彼は、男たちの前に立ちはだかった。
「その子に何か用か。俺が聞こうじゃねえか」 「何だ、てめえは。命が惜しけりゃ失せな、ガキ」 そこからは、いつもの喧嘩と同じだった。フィンは、荒っぽいながらも場数を踏んだ喧嘩殺法で、男たちを次々とのしていく。相手が怯んだ隙に、彼は少女の腕を掴んで駆け出した。
少女はリラと名乗った。彼女は、ある古代文明の末裔であり、レイヴン・フリートの船長サイラス・クロウが、彼女の一族に伝わるペンダントを狙っているのだという。ペンダントは、ある「特別な場所」への道標なのだと。
その時、フィンの背後から、聞き慣れた野太い声が響いた。 「フィン! また厄介事をしょい込んでるのか、この馬鹿弟子が!」 そこに立っていたのは、フィンの父の元相棒で、今は港の船大工として暮らすベテラン航海士、ギデオンだった。熊のような大男だが、その目には、フィンへの心配の色が浮かんでいる。 リラと追手の事情を知ったギデオンは、深刻な顔で言った。 「サイラス・クロウ……奴は、富のためなら悪魔に魂を売る男だ。その小娘を捕まえれば、奴は必ず殺すだろう」
話の途中で、サイラス本人が、部下を引き連れて波止場に現れた。冷酷な爬虫類を思わせる目をした、痩身の男。彼はフィンを一瞥すると、嘲るように言った。 「ほう、お前があのリアム・ウォーカーの息子か。親父は伝説の冒険家だったが、息子は港のチンピラとはな。その娘を渡せ。さすれば、親父が隠したというアヴァロンの宝の分け前をくれてやってもいい」 父の名を侮辱され、フィンの頭に血が上った。だが、サイラスの部下の数と、その銃口の冷たさが、彼を冷静にさせた。
その時だった。リラが、フィンの懐にはみ出していた羊皮紙の海図に気づいた。 「その地図……!」 彼女がそう叫んだ瞬間、首のペンダントが強く輝き、海図に描かれた奇妙な紋様と共鳴するように、淡い光の筋を放った。 「やはりな。リアムの残した海図と、その娘のペンダントが、アヴァロンへの鍵なのだ」 サイラスの目が、ギラリと光った。
絶体絶命。その時、ギデオンがフィンの耳元で囁いた。 「フィン、あれを使え! 親父さんの船だ!」 ギデオンが指さしたのは、港の隅に打ち捨てられたように係留されている、一隻の古い帆船だった。船の名は「スターゲイザー号」。父の愛船だったが、今は見る影もなく老朽化している。 フィンは一瞬ためらった。父の船で、父の地図を頼りに、海へ出る? 冗談じゃない。 だが、リラの怯えた顔と、サイラスの卑劣な笑みが、彼の心を決めさせた。
「やるしか、ねえか!」 フィンはリラの手を、ギデオンは船の係留ロープを掴み、スターゲイザー号へと飛び乗った。帆を張り、錨を上げる。旧式の船だが、ギデオンの手によって最低限の整備はされていた。追い風を捉えたスターゲイザー号は、ゆっくりと、しかし確実に港を滑り出した。サイラスの怒号を背に受けながら、フィン、リラ、ギデオンの三人を乗せた老朽船は、夜の闇が支配する大海原へと、その船首を向けた。
こうして、フィンの意図せざる大冒険が始まった。旅の目的は、伝説の天空の島アヴァロン。そこへたどり着き、リラを故郷へ帰し、サイラスから逃げ切る。それだけのはずだった。
スターゲイザー号の船上での生活は、フィンにとって驚きの連続だった。ギデオンは、フィンの知らなかった父の姿を語って聞かせた。父リアムは、ただの命知らずの冒険家ではなく、海を愛し、自然を敬う、優れたナチュラリストでもあったという。 「お前の親父さんは、いつも言ってたぜ。『海図に載ってる航路を行くだけが冒険じゃねえ。風の声を聞き、星の言葉を読め。そうすりゃ、海は本当の姿を見せてくれる』ってな」
父の海図は、やはり普通の海図ではなかった。リラのペンダントをかざすと、羊皮紙の上に、星の配置を示す光の点が浮かび上がる。それは、特定の星々が特定の位置に来た時にだけ進むべき航路を示していた。 「すごい……。父さんは、天測航法と古代の知識を組み合わせて、この地図を作ったんだ」 フィンは、初めて父の遺産に対して、畏敬の念を抱いた。
リラもまた、不思議な少女だった。彼女は、イルカの群れと会話をしたり、嵐の訪れを肌で感じ取ったりと、まるで自然と一体化しているかのようだった。彼女の一族は、代々、自然と調和して生きる民であり、ペンダントはその力を増幅させるためのものらしかった。最初は心を閉ざしていたリラも、ぶっきらぼうだが根は優しいフィンと、豪快なギデオンに、少しずつ心を開いていった。
旅は、決して平穏ではなかった。船よりも巨大な、伝説の海獣クラーケンに襲われた時は、三人の知恵と勇気を結集して、どうにかその触手を振り切った。眠らない霧が立ち込める「セイレーンの海域」では、リラの不思議な歌声で、船を惑わす幻惑の音を打ち消し、無事に突破した。数々の困難を乗り越えるたびに、三人の絆は強固なものになっていった。そしてフィンは、船を操ることの楽しさ、未知の海を進むことの高揚感に、少しずつ目覚めていった。父が、なぜあれほどまでに海に魅了されたのか、ほんの少しだけ分かった気がした。
だが、彼らの後方からは、サイラス・クロウの駆る最新鋭の装甲蒸気船「レイヴン号」が、黒い煙を吐きながら執拗に追ってきていた。その距離は、確実に縮まっていた。
数週間の航海の末、彼らはついに海図が示す最終目的地へとたどり着いた。そこは「テンペスト・アイ」と呼ばれる、一年中、直径数百キロに及ぶ巨大な嵐が渦巻いている、地図上の空白地帯だった。 「アヴァロンは、この嵐の中心にある……」 リラが、ペンダントの光を見つめながら呟いた。 「正気かよ。こんなもんに突っ込んだら、船が木っ端微塵だ」 フィンは、目の前で荒れ狂う、壁のような積乱雲と、天まで届きそうな水竜巻を前に、絶望的な気分になった。
だが、後方からはレイヴン号が迫っている。進むも地獄、退くも地獄。 「やるしかねえ! 親父さんを、自分を信じろ、フィン!」 ギデオンの檄が飛ぶ。フィンは覚悟を決めて、スターゲイザー号の舵を握り、嵐の中へと突っ込んでいった。
船は、木の葉のように翻弄された。マストはへし折れんばかりにしなり、叩きつける豪雨が甲板から容赦なく体温を奪っていく。リラはペンダントを握りしめて祈り、ギデオンは必死に帆を操作する。その時、水平線の向こうに、レイヴン号の黒い船影が現れた。サイラスもまた、この嵐に突入してきたのだ。 「逃がすか、ウォーカーの息子!」 レイヴン号の船首に備えられた捕鯨砲が火を噴き、スターゲイザー号の船尾を掠めた。衝撃でギデオンが甲板に倒れ、腕を負傷する。
「ギデオン!」 絶望的な状況。荒れ狂う自然の猛威と、人間の悪意。フィンは、もう駄目だと思った。その時、彼の脳裏に、父の言葉が蘇った。 『風の声を聞き、星の言葉を読め』 そして、彼は気づいた。父が海図に残したのは、単なる航路図ではない。この嵐を乗り切るための、究極の航海術そのものなのだと。海図に描かれた無数の曲線は、嵐の中の風と波の流れを示していた。それは、力でねじ伏せるのではなく、嵐と一体となり、その力を利用して進むための道筋だった。
「リラ! 風は、波は、何て言ってる!」 フィンは叫んだ。リラは、フィンの意図を即座に理解した。彼女は目を閉じ、意識を集中させる。ペンダントの光が、これまでになく強く輝いた。 「右へ! 三時の方向に、一瞬だけ風の道が開く!」 「面舵いっぱーい!」 フィンの号令で、スターゲイザー号は巨大な波の壁を滑るようにかわした。 「次は左! 波の下をくぐる!」 常識では考えられない操船。だが、フィンはリラの言葉と、父の海図を信じた。彼はもはや、ただ舵を握っているだけではなかった。船と、海と、風と一体化していた。
その奇跡的な航行の末、スターゲイザー号は、嘘のように静かな海域へと滑り出た。嵐の中心、「嵐の目」だ。そして、三人は息を呑んだ。目の前に広がる光景は、人の想像を遥かに超えていた。 空から、巨大な滝が流れ落ちているかのように、海水がゆっくりと天へと昇っている。重力の異常地帯。その中心に、緑豊かな大地と、水晶のように輝く建造物を持つ、巨大な浮遊島が静かに浮かんでいた。 「天空の島、アヴァロン……」
フィンたちが島に上陸すると、レイヴン号もまた、ボロボロになりながら嵐を抜け、後を追ってきた。 「ついに見つけたぞ! 古代兵器はどこだ!」 サイラスは、目を血走らせていた。 だが、島に眠っていたのは、兵器ではなかった。島の中心には、自然エネルギーを調和させ、世界の気候を安定させるための、巨大な青いクリスタルが脈動していたのだ。リラの一族は、代々この「世界の心臓」を守る、守り人だったのだ。
「兵器でないなら、この島ごと破壊して、そのエネルギーをいただくまでだ!」 狂気に駆られたサイラスは、レイヴン号の大砲をクリスタルに向けた。 「やめろ!」 フィンは、サイラスの前に立ちはだかった。最後の決戦。フィンは、武器ではなく、この島の自然を利用した。彼はサイラスを、間欠泉が噴き出す場所へと誘い込み、足場を崩して熱水の中へと突き落とした。さらに、サイラスの放った砲弾がクリスタルに当たったことでエネルギーが暴走を始め、レイヴン号は自らの起こした爆発に巻き込まれ、海中へと消えていった。
静けさが戻った島で、フィンは父の夢の本当の意味を理解した。父が求めていたのは、富や名声、古代兵器などではなかった。ただ、誰にも知られていない、この世界の美しい秘密を、この目で見たかっただけなのだ。
リラは、一族の使命を継ぎ、この島に残ることを決めた。 「ありがとう、フィン。あなたのおかげで、私は故郷に帰れた。そして、あなたも、あなた自身の旅を見つけた」 別れの時、リラはフィンの頬にそっとキスをした。
数日後、応急修理を終えたスターゲイザー号は、アヴァロンを後にした。舵を握るのは、逞しい船乗りの顔つきになったフィン。その隣には、怪我の癒えたギデオンが、満足そうに笑っている。 フィンの懐には、もうあの海図はない。それは、リラに託してきた。 彼の心の中には、父の遺産という重荷の代わりに、自分自身の冒険で描くべき、無限に広がる真っ白な海図が広がっていた。
「さて、船長。次はどこへ向かうんだ?」 ギデオンの問いに、フィンは朝日が昇る水平線を指さして、ニヤリと笑った。 「さあな。とりあえず、風の吹くまま、気の向くままに。俺たちの冒険は、まだ始まったばかりだ!」
父の船は、今や完全に彼自身の船となり、新たな伝説を刻むため、地図にない場所を目指して、力強く波を蹴立てて進んでいった。
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