アスファルトに叩きつけられた雨粒が、無数の小さな王冠を跳ねさせては消えていく。神田雄介は、濡れた折り畳み傘の先から滴る雫をぼんやりと眺めながら、重い足取りで坂道を下っていた。月曜日の午後七時。また一週間が始まり、そして終わっていく。彼の日常は、まるで精巧にプログラムされたループ処理のようだった。朝、満員電車に揺られて会社へ行き、一日中モニターと向き合い、誰かの意向を汲んだデザインを修正し、終電間際に帰宅する。その繰り返し。二十八歳という年齢は、夢を語るには少し気恥しく、かといって諦めるにはまだ早すぎる、中途半端な踊り場のように感じられた。
学生の頃は、世界を驚かせるようなデザイナーになると息巻いていた。自分の作ったもので、人の心を動かしたい。そんな青臭い情熱は、社会の荒波に揉まれるうちに、いつの間にか角が取れ、すっかり丸くなってしまった。今の彼にあるのは、クライアントの要求をいかに早く正確に形にするかという、作業をこなすための技術だけだ。
そんな雄介のささやかな逃げ場所が、坂の途中にある「純喫茶アルタイル」だった。年季の入った木の扉を開けると、カラン、と涼やかなベルの音が鳴り、焙煎された珈琲豆の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。使い込まれて艶の出たカウンター席、深紅のベルベットが張られた椅子、壁に掛けられた古い柱時計。その全てが、雄介を現実の喧騒から切り離してくれるようだった。
「いらっしゃいませ」
いつものようにカウンターの端の席に腰を下ろすと、白髪を綺麗に撫でつけたマスターが、穏やかな笑みで迎えてくれた。雄介は「ブレンドを」とだけ告げる。言葉は少なくても、もう何年も通い続けたこの場所では、それが心地よかった。
その日、店には先客が一人いた。カウンターの真ん中の席に、一人の女性が座っている。年は雄介と同じくらいだろうか。色素の薄い、さらりとした髪が肩のあたりで揺れている。白いブラウスに身を包んだ彼女は、まるでこの店の古い空気とは不釣り合いなほど、澄んだ存在感を放っていた。彼女は、珈琲カップを両手で包み込むように持ち、静かに窓の外の雨を眺めていた。
雄介が濡れた鞄からスケッチブックを取り出し、意味もなく鉛筆を走らせていると、不意に彼女が立ち上がり、彼の隣にやってきた。そして、何の脈絡もなくこう言ったのだ。
「あなたは、何か大切なものを失くしましたね」
透き通るような、それでいて芯のある声だった。雄介は驚いて顔を上げた。彼女の瞳は、星空のように深く、吸い込まれそうだった。
「……はあ?」 「失くしもの、ありませんか。ずっと探しているもの。あるいは、失くしたことさえ忘れてしまったもの」
唐突な言葉に、雄介は戸惑うばかりだった。セールスか、あるいは何かの勧誘だろうか。警戒心を滲ませる雄介に、マスターが助け舟を出した。 「雄介くん、彼女は星野詩織さん。私の古い友人の孫でね。夏の間だけ、ここで手伝ってもらっているんだよ。少し、変わった子でね」 星野詩織と名乗った彼女は、悪びれる様子もなく、にこりと微笑んだ。 「私、見えるんです。人が失くしたものが」
その言葉は、まるで子供の戯言のように聞こえた。だが、詩織の真剣な眼差しは、雄介にそれを一笑に付すことを躊躇わせた。 「失くしたもの、ですか。鍵とか、財布とか?」 「そういう物理的なものもあれば、もっと形のないものもあります。思い出とか、自信とか、夢とか」
夢、という言葉に、雄介の心臓が小さく跳ねた。彼は反射的にそれを打ち消すように、わざと馬鹿にしたような口調で言った。 「じゃあ、俺が子供の頃に失くした、ロボットのおもちゃの場所も分かるんですか。確か、青くて、胸に赤いランプが付いていたやつだ」 それは、五歳の誕生日に父親に買ってもらった、宝物だった。いつ、どこで失くしたのかも覚えていない。ただ、胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感だけが、記憶の片隅にこびりついていた。
詩織は少しの間、目を閉じて黙り込んだ。そして、ゆっくりと目を開けると、静かに告げた。 「それは、あなたの実家の、お庭の隅にある大きな金木犀の木の下。根元に、深く埋まっています。たぶん、雨が降った日に、泥遊びをしていて……」
雄介は息を呑んだ。実家の庭には、確かに大きな金木犀の木があった。そして、幼い頃、雨上がりに庭で泥だらけになって遊んでは、母親に叱られていた記憶が蘇る。偶然だろうか。いや、それにしても、あまりに具体的すぎる。 その週末、雄介は半信半疑のまま、数年ぶりに実家へ帰った。そして、庭の金木犀の木の下を、おそるおそる掘り返してみた。湿った土の匂いが立ち上る。しばらく掘り進めると、硬い何かにスコップの先が当たった。泥を掻き分けると、そこには、色褪せ、泥にまみれた、青いプラスチックの塊があった。胸には、ひび割れた赤いランプがついていた。
二十年以上ぶりに再会した宝物を手に、雄介は呆然と立ち尽くした。詩織の言ったことは、本当だったのだ。
その日から、雄介の世界は少しずつ変わり始めた。彼は、仕事が終わると吸い寄せられるようにアルタイルへ向かい、詩織と話をするようになった。彼女は、自分の能力について多くを語らなかった。ただ、物や人が発する、微かな「声」のようなものを感じ取れるのだという。
詩織の力は、口コミで少しずつ広まっていった。アルタイルには、様々な「失くしもの」を抱えた人々が訪れるようになった。結婚指輪を失くしたという若い主婦。亡き夫が口ずさんでいた曲のタイトルを思い出せないという老婦人。大事なプレゼンの前に自信を失ってしまったサラリーマン。
詩織は、彼らの話を静かに聞き、その「声」に耳を澄ませる。そして、まるで探偵のように、失くしものの在処や、それを取り戻すためのヒントを告げるのだった。雄介は、いつしか詩織の「助手」のような役割を担うようになっていた。詩織が見つけ出した抽象的なイメージを、雄介がデザインのスキルを活かしてスケッチに起こし、具体的な形にして依頼人に見せる。二人のコンビは、実にうまくいった。
ある日、一人の少女が母親に連れられて店にやってきた。コンクールを前に、絵を描く楽しさを失くしてしまったのだという。スランプに陥った彼女は、何を描いてもつまらない、灰色にしか見えないと俯いていた。 詩織は、その少女の話を聞いた後、雄介に一枚の紙を渡した。 「こんな感じの『声』が聞こえるんです。きらきらしていて、温かくて、とても甘い感じ」 詩織の言葉は、いつも曖昧で感覚的だ。雄介は、その言葉を頼りに鉛筆を走らせた。きらきら、温かい、甘い。彼が描いたのは、夕暮れの光を浴びて黄金色に輝く、蜂蜜の瓶だった。瓶の中では、小さな光の粒が踊っている。
そのスケッチを見た瞬間、少女の瞳が大きく見開かれた。 「これ……おばあちゃんが作ってくれた、蜂蜜レモンだ」 少女は、幼い頃、風邪をひくと祖母がいつも作ってくれた蜂蜜レモンが大好きだったという。その甘酸っぱい味と、湯気と共に立ち上る優しい光景が、彼女にとっての「絵を描く楽しさ」の原点だったのだ。スランプという壁にぶつかるうち、その大切な記憶を、彼女は失くしてしまっていた。少女は、ありがとう、と涙を浮かべて何度も頭を下げ、晴れやかな顔で帰っていった。
そんな日々を過ごすうちに、雄介は自分の仕事にも変化を感じ始めていた。クライアントの要望に応えるだけの退屈な作業ではなく、詩織の抽象的なイメージを形にすることで、失われていたはずの創造力が刺激されていくのを感じた。人の心を動かすとは、こういうことなのかもしれない。灰色だった彼の日常は、詩織という存在によって、鮮やかな色彩を取り戻しつつあった。
詩織と過ごす時間は、穏やかで、満ち足りていた。彼女の過去については、誰も知らなかった。マスターでさえ、「あの子は、ふらりと現れては、またいつの間にかいなくなる、渡り鳥のような子なんだ」と言うだけだった。彼女自身も、自分のことを話そうとはしなかった。ただ、時折、遠くを見るような寂しげな瞳をすることがあり、雄介はそれが気になっていた。
夏の終わりが近づいたある日のこと。雄介は、大きなコンペの話を会社で持ちかけられた。街の再開発プロジェクトの、シンボルマークのデザイン。それは、彼がかつて夢見ていたような、大きな仕事だった。以前の彼なら、どうせ自分には無理だと、最初から諦めていただろう。しかし、今の彼には、挑戦してみたいという気持ちが湧き上がっていた。失くした夢を、もう一度この手で掴みたい。
その夜、雄介はコンペの企画書を抱え、アルタイルへと向かった。詩織にこの話を聞いてほしかった。彼女なら、きっと応援してくれるはずだ。そして、彼女に聞いてみたかった。自分自身が本当に「失くしたもの」は何なのか。それは本当に、デザイナーとしての夢だったのか。
しかし、その日、アルタイルのカウンターに詩織の姿はなかった。 「いらっしゃい。詩織ちゃんなら、今日はもう帰ったよ」 マスターの言葉に、雄介は言いようのない胸騒ぎを覚えた。いつもなら、彼が来るまで待っていてくれるはずだ。彼は礼を言って店を飛び出し、彼女が住んでいるという古いアパートへ向かった。
アパートの部屋のドアには鍵がかかっておらず、中はがらんとしていた。まるで、最初から誰も住んでいなかったかのように、生活の気配が綺麗に消え去っていた。テーブルの上に、ぽつんと一枚のメモが置かれているのが目に入った。それは、雄介のスケッチブックの切れ端だった。そこには、詩織の、少し癖のある、それでいて綺麗な文字が並んでいた。
『神田さんへ。たくさんの失くしものを見つけるお手伝いをしてくれて、ありがとうございました。あなたのおかげで、私も、自分の失くしたものを探しに行こうと決心がつきました。探さないでください。 星野詩織』
雄介は、そのメモを握りしめ、呆然と立ち尽くした。彼女もまた、何かを失くしていた。そして、それを探すために一人で旅立ってしまった。なぜ、何も言ってくれなかったのか。自分は、彼女にとってただの「助手」でしかなかったのだろうか。込み上げてくる寂しさと、行き場のない怒りで、胸が張り裂けそうだった。
翌日から、雄介の日常は再び灰色に戻った。いや、以前よりもっと濃い、絶望的な色をしていた。アルタイルに足を運んでも、そこに詩織の姿はない。コンペの企画書も、開く気になれなかった。情熱を注ぐべき対象を、彼は再び失ってしまったのだ。
数日が過ぎた頃、見かねたマスターが、雄介に声をかけた。 「詩織ちゃんのこと、探してやったらどうだ」 「でも、探さないでくれって……」 「あの子は、自分の居場所を失くしていたんだよ。自分の過去の記憶が、ほとんどないんだ。親の顔も、育った町のことも、何も覚えていない。だから、いつも不安で、一つの場所に留まることができなかった。君と一緒にいる時間は、あの子にとって、初めて見つけた『居場所』だったのかもしれない。でも、君が自分の夢に向かって進もうとしているのを見て、自分も逃げていては駄目だと思ったんだろう」
マスターは、カウンターの下から一枚のスケッチを取り出した。それは、詩織が残していったものだという。そこには、お世辞にも上手いとは言えない線で、海と、崖の上に立つ古い灯台のようなものが描かれていた。 「これは、あの子が時々、断片的に見ていた『記憶の風景』らしい。自分の失くしたものに繋がる、唯一の手がかりなんだと。君なら、何か分かるんじゃないか」
その稚拙な絵を見た瞬間、雄介の中で何かが弾けた。そうだ、自分はデザイナーだ。詩織の曖昧なイメージを形にしてきたじゃないか。今度も、同じだ。彼女が残したこの断片的な風景から、彼女の居場所を見つけ出してやる。失くしたのは、夢だけじゃなかった。彼女自身が、いつの間にか自分にとって、かけがえのない存在になっていたのだ。
雄介は会社に数日の休暇を申請し、その日から、詩織の捜索に没頭した。彼は日本中の灯台の写真をインターネットで検索し、古地図を広げ、図書館に通い詰めた。詩織のスケッチには、灯台の他に、小さな漁船と、特徴的な形の岩が描かれていた。それを手掛かりに、彼は候補地を絞り込んでいった。そして、ついに一つの場所に辿り着く。本州の北端に近い、小さな港町。その町の外れにある岬の写真には、詩織が描いたのと同じ形の岩と、今は使われていない古い灯台が写っていた。
雄介は、迷わずその町行きの夜行バスに飛び乗った。バスの窓から流れていく景色を眺めながら、彼は詩織との出会いを思い出していた。彼女は、本当に失くしたものを見つけられただろうか。そして、自分は、彼女に会って何を伝えるべきなのだろうか。答えは見つからないまま、バスは夜の闇を走り続けた。
早朝、バスが目的地の港町に着いた。潮の香りが混じった冷たい空気が、雄介の頬を撫でる。彼は地図を頼りに、岬の灯台を目指して歩き始めた。海沿いの道を歩き、急な坂道を登りきると、視界が開け、青い海と空が目に飛び込んできた。そして、その岬の突端に、風雨に晒されて白く色褪せた灯台が、静かに佇んでいた。
灯台の下に、一人の女性が立っていた。 白いブラウスが、海風にはためいている。 「詩織……」 雄介が声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。その瞳は少し潤んでいるように見えた。 「どうして、ここが……」 「君が残した地図を、解読したんだ。デザイナーだからね」 雄介は、少し得意げに、そして照れくさそうに笑った。
二人の間に、しばらく沈黙が流れた。カモメの鳴き声と、波の音だけが響いている。 「何か、思い出したのか」 雄介が尋ねると、詩織は小さく首を振った。 「ううん。何も。ただ、ここに来なければいけないって、そう思っただけ。でも、ここに来ても、結局何も思い出せなかった。私の失くしたものは、ここにはなかったみたい」 自嘲するように笑う彼女の姿は、ひどく儚げで、消えてしまいそうだった。雄介は、たまらなくなって彼女の腕を掴んだ。
「失くしたものが見つからないなら、それでいいじゃないか」 「え……?」 「過去の記憶がなくたって、君は君だ。俺が出会った、星野詩織だ。思い出せない過去を探し続けるより、これから新しい記憶を、二人で作っていけばいい。俺の失くした夢も、君がいなければ、きっと見つけられなかった。だから今度は、俺が君の居場所になる。俺の隣で、俺の夢を一緒に見ていてほしい」
それは、不器用で、格好のつかない告白だった。しかし、彼の真っ直ぐな言葉は、詩織の心の奥深くに、温かい光を灯した。彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。それは、悲しみの涙ではなく、ようやく安らげる場所を見つけた、喜びの涙だった。彼女は、何度も頷きながら、雄介の胸に顔を埋めた。
東京に戻った二人の日常は、以前とは少し違っていた。詩織はまだ全ての記憶を取り戻したわけではなかったが、彼女の表情から、かつてのような不安の色は消えていた。雄介という確かな「居場所」が、彼女を強くしていた。雄介もまた、コンペに向けて、再びデザインに没頭し始めた。彼の作るデザインには、以前にはなかった力強さと、優しさが満ち溢れていた。
数ヵ月後、リニューアルのために一時閉店していた「純喫茶アルタイル」が、再びその扉を開けた。新しい看板のデザインは、雄介が手掛けたものだ。夜空に輝く北極星(ポラリス)をモチーフにしたそのロゴは、道に迷った人のための道しるべを意味していた。
店のカウンターには、穏やかな笑みを浮かべるマスターと、その隣で新しい珈琲カップを丁寧に拭く、詩織の姿があった。そして、その向かいの席には、コンペに見事入選し、デザイナーとして大きな一歩を踏み出した雄介が座っている。
「これから、どんなものを作っていきたい?」 詩織が尋ねると、雄介は少し考えてから、優しく微笑んで答えた。 「そうだな。誰かが失くしてしまった、大切な何かを思い出せるような、そんなデザインを作りたい。君みたいにね」
失くしたものを見つけた先には、必ず新しい未来が待っている。二人の前には、珈琲の湯気の向こうに、どこまでも続く、希望に満ちた日常が広がっていた。

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