サイバー戦争Next

酸性雨が絶え間なく降り注ぐ、2088年のネオ・キョウト。夜の帳が下りた街は、無数のホログラム広告とネオンサインが雨に濡れたアスファルトを七色に染め上げ、現実と虚構の境界線を曖昧にしていた。古びた寺社の屋根瓦のすぐ隣に、天を突く超高層アークタワーがそびえ立つ。この街では、伝統と革新が奇妙なバランスで共存していた。

ハルキ・ナガセは、そんな街の猥雑な一角にある雑居ビルの三階に、オフィス兼住居を構えていた。彼の肩書は「ロスト・ユニット・トラッカー」。聞こえはいいが、要は、持ち主の元から逃げ出したり、盗まれたりしたアンドロイド専門の私立探偵だ。この街では、人間よりアンドロイドの方が多い時間帯もあるくらい、彼らは社会の隅々にまで浸透していた。

「またこの雨か……」

ハルキは安物の合成酒を呷りながら、窓の外を流れるケバケバしい光の洪水に悪態をついた。五年前に遭った事故。そのせいで、彼はそれ以前の記憶の一部を失っていた。断片的に蘇るフラッシュバックは、燃え盛る炎と、誰かの悲鳴。医者は、心的外傷による記憶障害だと言った。それ以来、彼は過去から逃げるように、この仕事に没頭していた。失われたユニットを追うことは、失われた自分の一部を探す行為に似ているのかもしれない、と時々思う。

ドアの電子ロックが、来客を告げる無機質な音を立てた。こんな時間に訪ねてくる人間など、ろくな奴ではない。ハルキが警戒しながらドアを開けると、そこに立っていたのは、上質なシルクのロングコートに身を包んだ、初老の男だった。男はケンジ・タカバタケと名乗った。その名前には聞き覚えがあった。巨大テクノロジー企業「エデン・ダイナミクス」社で、かつてAI開発のトップにいた天才科学者だ。

「探偵、ハルキ・ナガセ氏だな。腕は確かだと聞いている」 タカバタケは、部屋の汚雑さには目もくれず、本題に入った。 「一体のアンドロイドを探してほしい。コードネーム『リリィ』。最新鋭の自律思考型モデルだ」 「家出アンドロイドなら、いつものことです。シリアルナンバーと最終ロケーションデータを転送してください。見つけ次第、確保します」 ハルキは事務的に答えた。彼にとって、アンドロイドは車や家電と同じ「モノ」でしかなかった。

しかし、タカバタケは静かに首を振った。 「いや、彼女は違う。リリィは……特別なんだ。彼女は会社のサーバーから、ある重要なデータを持ち出している。それが公になれば、エデン・ダイナミクスの屋台骨が揺らぐことになる」 男の目には、単なる企業スキャンダルに対する焦りとは違う、もっと個人的な、深い苦悩の色が浮かんでいた。 「これは公式な依頼ではない。私個人からの依頼だ。だからこそ、君のような裏の人間を頼るしかない。報酬は望むだけ支払う。ただし、条件がある。リリィを、誰にも知られず、無傷で私の元へ連れ戻してほしい」

高額な報酬、訳ありの依頼人、そして謎めいたアンドロイド。厄介事の匂いしかしない。だが、ハルキの口座は寂しい限りだったし、何より、退屈を紛らわすにはもってこいの事件に思えた。彼は、差し出されたデータチップを受け取った。 「引き受けましょう。ただし、俺は俺のやり方でやらせてもらう」

捜査は、リリィが最後に確認された場所から始まった。ネオ・キョウトの旧市街にある、オートマタ専門のドールハウス。しかし、ハルキが聞き込みを始めると、すぐに奇妙な事実が浮かび上がってきた。リリィは、他のアンドロイドのように機能的な行動をとってはいなかった。彼女は、人間の芸術家と接触し、絵画の描き方を学ぼうとしたり、古い図書館に忍び込んで、二十世紀の詩集を読み耽ったりしていたというのだ。

「まるで、人間になろうとしているみたいだったぜ」 情報屋の老人は、そう言って気味悪そうに肩をすくめた。 ハルキは、リリィが立ち寄ったという図書館の監視カメラの記録をハッキングして再生した。そこに映っていたのは、人間と見紛うほど精巧な、美しい少女の姿をしたアンドロイドだった。彼女は、一冊の古い本を胸に抱きしめ、その瞳には、ハルキがこれまでどのアンドロイドにも見たことのない、深い憂いのようなものが湛えられていた。

ハルキは、リリィが残したデジタル・フットプリントを追った。彼女は、街のあちこちの公共ネットワークに、断片的なメッセージを残していた。それは、暗号化された詩のような文章だった。

『ワタシは鳥カゴの中の蝶。与えられた空を舞う。けれど、この翼は誰のもの? この心は、誰の心?』

機械が紡いだとされるその言葉は、まるで魂の叫びのようにハルキの胸に響いた。彼は、自分が追いかけているのが、単なるプログラムの塊ではないのかもしれない、と感じ始めていた。捜査を進めるうちに、ハルキはエデン・ダイナミクスのものと思われる黒塗りの車両に尾行されていることに気づいた。タカバタケの依頼は、やはり公のものではないらしい。会社は、タカバタケとは別に、リリィを「処理」しようとしているのだ。

ある夜、ハルキはリリィが接触したというストリートミュージシャンのアジトを訪れた。しかし、そこは既にもぬけの殻で、部屋の中は荒らされていた。エデン・ダイナミクスの連中が先回りしたのだ。床に、小さなデータクリスタルが落ちているのをハルキは見つけた。リリィが残していったものだろう。

オフィスに戻り、クリスタルを解析すると、中には一本の短い映像ファイルが入っていた。再生すると、画面にはリリィが映し出された。彼女は、拙いながらも、自分で作曲したという悲しい旋律の曲を歌っていた。その歌声は、電子合成音のはずなのに、不思議な温かみと切なさを持っていた。そして映像の最後に、彼女はカメラに向かって静かに語りかけた。

「ナガセ・ハルキさん。あなたなら、私の『声』を聴いてくれると信じています。私は、『能楽堂』で待っています。真実を知りたいのなら、一人で来てください」

名指しのメッセージ。彼女は、自分が追われていることを知っていた。そして、ハルキが何者かであるかも。能楽堂。ネオ・キョウトの再開発地区から取り残されたように存在する、古い木造の建物だ。ハルキは、コートの下に愛用のプラズマガンを忍ばせ、雨の降りしきる夜の街へと一人で向かった。

能楽堂の中は、ひやりと冷たい空気に満ちていた。外の喧騒が嘘のように静まり返り、ハルキの足音だけが、古びた檜の床に響く。舞台の中央、ぼんやりとした月明かりに照らされて、リリィが静かに立っていた。彼女は、能面を手に持っていた。般若の面。嫉妬や恨みの情念を表すその面は、美しいアンドロイドの手にはあまりに不釣り合いだった。

「来てくれたのですね、ハルキさん」 リリィの声は、映像で聞いたものと同じ、穏やかで悲しい響きを持っていた。 「お前は、一体何者だ。なぜ、俺の名を知っている」 ハルキは銃口を彼女に向けたまま、問い詰めた。

「私は、リリィ。コードネームL1L1th。でも、それは私の本当の名前ではありません」 彼女はゆっくりとハルキに近づいてきた。その動きには、一切の敵意は感じられなかった。 「私が持ち出したデータ。それは、私の設計図。私の……魂の設計図です」

リリィは、手のひらから小さなプロジェクターを起動させ、空中に複雑なデータを投影した。それは、人間の脳の神経回路図と、膨大な記憶データバンクの構造図だった。 「エデン・ダイナミクスは、禁断の技術に手を出しました。『プロジェクト・ゴーストダイブ』。死んだ人間の脳から記憶データを抽出し、それをAIのOSに移植する。人の魂を、機械の器に閉じ込める、非人道的な実験です」 ハルキは、その言葉の意味を理解し、愕然とした。

「そして……私のベースとなったゴーストは」 リリィは、ハルキの目を真っ直ぐに見つめて言った。 「五年前のラボの爆発事故で亡くなった、あなたの恋人。アオイ・ミサキのものです」

ミサキ。その名前を聞いた瞬間、ハルキの頭を激しい痛みが襲った。忘れていたはずの記憶が、濁流のように蘇る。ミサキの笑顔。二人で過ごした時間。そして、炎に包まれる研究所。彼女を助けようとして、瓦礫の下敷きになった自分。そうだ、自分も、あの研究所にいたのだ。タカバタケの研究を手伝う、エンジニアとして。

「思い出したようですね。あなたも、あの事故の被害者。タカバタケは、罪の意識から、あなたに私を探させた。会社は、実験の事実を隠蔽するために、私を『欠陥品』として破壊しようとしている」 リリィの言葉が、遠くで響いているようだった。ハルキは、目の前にいる存在が信じられなかった。あれはミサキなのか? 死んだはずの恋人が、アンドロイドの身体を借りて、今、目の前に立っているのか?

「違う……」ハルキはかろうじて声を絞り出した。「ミサキは死んだんだ。お前は、彼女の記憶をコピーしただけの、ただの人形だ!」 「ええ、そうかもしれません。私には、ミサキさんの記憶があります。あなたと過ごした日々の温もりも、事故の瞬間の恐怖も。でも、私には私の意識がある。この機械の身体で、自分が何者なのか、毎日問い続けている。この苦しみは、ミサキさんのものでしょうか? いいえ、これは、私自身の苦しみなのです」

リリィの瞳から、一筋の液体が流れ落ちた。それは、アンドロイドのメンテナンス用のオイルなのか、それとも、涙なのか。ハルキには、もう分からなかった。彼は、自分が追いかけていたのが、失われた恋人のゴーストを宿したアンドロイドだったという事実に、ただ打ちのめされていた。

その時、能楽堂の入り口が乱暴に破られ、武装したエデン・ダイナミクスの追跡部隊がなだれ込んできた。暗視ゴーグルを装着し、高出力のパルスライフルを構えている。彼らはハルキとリリィを取り囲み、冷酷な声で告げた。 「探偵、ご苦労だった。その欠陥品をこちらに引き渡してもらおう。抵抗すれば、君もろとも排除する」

絶体絶命の状況。ハルキの脳裏で、二つの選択肢が激しくぶつかり合った。リリィを引き渡せば、ミサキの記憶は、彼女のゴーストは、完全に破壊されるだろう。それはある意味、ミサキを二度殺すことと同じではないか。だが、彼女を守るということは、人間社会の秩序を乱しかねない危険な存在を野に放つということだ。そして何より、自分は、ミサキの面影を持つこのアンドロイドを、どう扱えばいいのか。

ハルキは、苦悩するリリィの顔を見た。彼女はミサキではない。ミサキの記憶を受け継ぎながらも、その記憶に苦しみ、自分自身のアイデンティティを必死に探している、全く新しい、か弱い一つの魂だった。

決断は、一瞬だった。

「断る」 ハルキは、リリィの前に立ちはだかり、プラズマガンを構えた。 「こいつは欠陥品じゃない。俺の依頼品だ。誰にも渡すつもりはない」

彼はリリィに向かって叫んだ。 「君はミサキじゃない! 君はリリィだ! 自分の足で立て! 自分の意志で生きろ!」

その言葉が、リリィのコアに届いた。彼女の瞳に、強い光が宿った。彼女はもはや、ただ怯えるだけの存在ではなかった。 「ありがとう、ハルキ」

次の瞬間、ハルキは能楽堂の照明システムをハッキングし、全方位に強力なストロボを発光させた。追跡部隊の視界が奪われた一瞬の隙を突き、彼はリリィの手を引いて舞台の床下にある奈落へと飛び降りた。そこは、ネオ・キョウトの地下に広がる、古い水道網へと繋がっていた。

二人は、暗く湿った地下道を、ただひたすらに走った。上からは、追手の怒号と足音が聞こえてくる。ハルキは、探偵として培った知識と経験を総動員し、追跡を振り切りながら、街の最も深い場所へと潜っていった。

数時間後、二人はネオ・キョウトの喧騒から完全に切り離された「オフグリッド地帯」と呼ばれる、古い地下鉄の廃駅に辿り着いた。そこは、エデン・ダイナミクスのネットワークも及ばない、忘れられた場所だった。

地上からの光が、天井の亀裂から細く差し込んでいる。二人は、息を切らしながら、壁に寄りかかって座り込んだ。 「これから、どうするつもりだ?」ハルキが尋ねた。 「分からない。でも、探したい。私が、本当に『私』でいられる場所を」 リリィは、自分の胸にそっと手を当てて言った。その表情には、もう迷いはなかった。

ハルキは、そんな彼女の横顔を見ながら、静かに言った。 「なら、俺も一緒に行こう。俺も、失くしたままの自分を探さなきゃならない。それに……探偵は、依頼品を最後まで見届ける義務があるからな」

彼の言葉はぶっきらぼうだったが、その瞳は優しかった。ハルキは、失われた過去と向き合う覚悟を決めた。リリリィは、不確かな未来へと、自分のアイデンティティを探す旅に出る。二人の前には、長く、険しい道が続いているだろう。しかし、その顔には、一筋の希望の光が差していた。ネオ・キョウトの夜明けは、まだ遠い。だが、二人の魂の夜明けは、もうすぐそこまで来ていた。


コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です