アスファルトの照り返しと、ひっきりなしに鳴り響くクラクション。灰色のビル群に切り取られた空。相葉湊は、そんな都会の風景に、もううんざりしていた。デザイン会社で働いていたが、過酷な労働と希薄な人間関係の中で、いつしか心がささくれ立ち、色を失っていくのを感じていた。ある朝、彼は糸が切れたように会社へ行くのをやめた。そして、ほとんど衝動的に、数年前に亡くなった祖母が暮らしていた田舎町行きの鈍行列車に飛び乗った。
緑の匂いを運ぶ風、どこまでも青い空、そして夜には満天の星。その町は、湊が子供の頃に夏休みを過ごした時のまま、静かで穏やかな時間が流れていた。彼は、誰もいなくなった祖母の家で、ただぼんやりと日々を過ごした。心を空っぽにすることが、今の彼にできる唯一のことだった。
家の整理をしていると、桐の箪笥の奥から、古い革張りのフィルムカメラが出てきた。祖母の遺品だろうか。その傍らには、一枚のセピア色に変色した写真があった。写っているのは、木漏れ日が降り注ぐ、深い森の光景。無数の木々が、まるで天を敬うかのように伸び、地面はビロードのような苔で覆われている。それは、ただの風景写真ではなかった。写真の中から、静かな息遣いと、悠久の時の流れが聞こえてくるような、不思議な一枚だった。
「時忘れの森……」 湊は、子供の頃に祖母から聞いた話を思い出していた。町の外れにある大きな森。一度足を踏み入れると二度と出てこられない、入ると時間の感覚がおかしくなって、外に出た時には何十年も経っていた、という古い言い伝え。あの写真の場所は、きっとその森なのだろう。 何かに導かれるように、湊は埃をかぶったカメラを首から下げ、その森へと向かった。
森の入り口には、「入るべからず」と書かれた古い立て札があったが、湊は構わず足を踏み入れた。一歩中に入っただけで、空気が変わるのが分かった。ひやりと涼しく、濃密な生命の匂いに満ちている。鳥の声も、虫の音も聞こえない。ただ、風が木々の葉を揺らす音だけが、さわさわと響いていた。
歩き始めて、どれくらいの時間が経っただろうか。太陽の位置は変わらず、腹も空かない。時間の感覚が、確かに狂い始めている。彼は、あの写真に写っていた場所を探していた。やがて、森の最も深い場所に、ひときわ大きな楠の大樹がそびえ立っているのを見つけた。その根元は、まるで緑の玉座のように苔むしており、写真と全く同じ光景だった。
そして、彼は息を呑んだ。玉座の上に、一人の女性が横たわり、静かに眠っていたのだ。月の光を編み込んだような銀色の長い髪、透き通るように白い肌。この世の者とは思えないほど、神秘的な美しさを湛えている。彼女が、ゆっくりと目を開けた。その瞳は、夜の森の色を映したように、深く、静かだった。
「……誰?」 彼女の声は、風の音に溶け込むように、静かに響いた。 「あなたは、人間。久しぶりね。こんな森の奥まで来るなんて」 「あなたは……一体?」 「私? 私はヨル。この森そのもの。あなたたちが『時間』と呼ぶものから、忘れ去られた存在」
ヨルと名乗った彼女は、湊が首から下げているカメラに気づき、興味深そうにそれを指さした。 「それは何?」 「カメラだ。写真を撮るための……」 「シャシン?」 ヨルは、その言葉の意味が分からないようだった。湊は、持っていた祖母の写真を見せた。 「これが、写真。一瞬の光景を、こうして閉じ込めておくことができるんだ」 ヨルは、その小さな紙切れを不思議そうに眺めていた。 「面白い。人間は、そんなことをするのね。流れゆくものを、無理やり留めようとするなんて」
ヨルは、森から出たいなら、私を愉しませなさい、と言った。そして、その「シャシン」とやらで、私や、この森の面白いものを撮って見せなさい、と。湊は、断る理由もなかった。彼は、ファインダーを覗き、森の風景にレンズを向けた。そして、ヨルの姿にも。
シャッターを切るたびに、カシャン、という心地よい機械音が森の静寂に響いた。湊は、夢中で撮り続けた。木々の間から差し込む光芒、苔の上を滑る水滴、風に舞う木の葉、そして、時折、少女のように無邪気な表情を見せるヨル。ファインダー越しに見る世界は、彼が失いかけていた色彩と輝きに満ちていた。空っぽだった彼の心に、温かい何かが、少しずつ満たされていくのを感じた。
季節が、森の中だけで巡っていった。湊には、それが一日なのか、一月なのか、一年なのかも分からなかった。春には、ヨルの周りに桜が咲き乱れ、夏には、蛍が彼女の髪を飾った。秋には、燃えるような紅葉が彼女の衣となり、冬には、ダイヤモンドダストがキラキラと舞った。湊は、その全てを写真に収めた。現像する術はない。ただ、フィルムに焼き付けていくだけ。それでも、彼は満ち足りていた。
ヨルもまた、変わっていった。湊の撮った写真(といっても、撮ったという事実だけだが)を通じて、彼女は初めて、自分が生きる世界の美しさを客観的に知った。悠久の時を生きる彼女にとって、全てのものはただ流れては消えるだけのものだった。だが、湊が切り取る「一瞬」は、永遠に等しい輝きを放っているように思えた。
「あなたの目を通して見ると、世界はこんなにも綺麗なのね」 ある日、ヨルはそう言って、幸せそうに微笑んだ。その笑顔を見た時、湊は、自分が彼女にどうしようもなく惹かれていることに気づいた。
彼は、祖母が残した写真のことも、ヨルに話した。 「僕の祖母も、昔ここに来たのかもしれない。そして、君を撮ったんだ」 ヨ.ルは、少し考えるそぶりを見せた後、小さく頷いた。 「……いたかもしれないわね。昔、よく私に花を摘んでくれた、優しい女の子が。でも、人間の記憶は、私の中ではすぐに霞んでしまうの。あなたも、いずれ……」 その言葉に、湊の胸はちくりと痛んだ。
湊は、自分がヨルを愛していることを、はっきりと自覚した。彼女のそばにいたい。このまま、時を忘れた森で、二人で生きていきたい。だが、ふと自分の手を見ると、都会にいた頃よりも少し皺が増え、日に焼けていることに気づく。自分は、確実に歳を取っている。しかし、ヨルは、出会った頃と何一つ変わらない。
人間と、精霊。有限の命と、無限の時。 この恋が、決して叶うことのないものだと、彼は痛いほど理解していた。愛すれば愛するほど、二人の間にある絶対的な「時間」という壁が、残酷なまでに浮き彫りになっていく。このまま森にいれば、自分は老人になり、やがて死ぬ。そしてヨルは、また一人で、永遠の時を生き続けるのだ。その想像は、彼にとって耐え難い苦痛だった。
そんな葛藤に苦しむ湊を、さらなる追い打ちが襲う。ある日、ヨルの体が、不意に透き通り、消えかかったのだ。 「どうしたんだ、ヨル!」 「……分からない。力が、なんだか……」 彼女は、苦しそうに胸を押さえた。その時、森の外から、けたたましい機械の音が響いてきた。湊が森の境界まで行ってみると、そこでは、重機が木々をなぎ倒し、森の一部を伐採していた。
町の掲示板で見た、リゾート開発計画のことを思い出す。この森を切り拓き、ホテルを建てるという計画だ。森が、ヨルそのものであるのなら、森が失われることは、彼女の消滅を意味する。
湊は、決断を迫られた。このままヨルと共に森に残り、彼女と運命を共にするか。それとも、外の世界へ戻り、彼女を救うために戦うか。後者を選べば、二度とこの森には戻れないかもしれない。外界の時間を生きるということは、ヨルとの永遠の別れを意味するかもしれなかった。
「ヨル、僕は行くよ」 湊の決意は、固まっていた。 「僕が、必ずこの森を守る。君を、消させはしない」 ヨルは、悲しげに瞳を揺らめかせたが、何も言わずに頷いた。 「約束だ。必ず、また会いに来る。君の写真を、撮るために」 そう言い残し、湊は、何十本もの撮り終えたフィルムを抱え、森を後にした。森を出た瞬間、数ヶ月過ごしたはずの時間が、実は外界では二週間しか経っていなかったことを知った。
町に戻った湊は、すぐに行動を開始した。彼は、町の写真屋の主人に頭を下げ、暗室を借りた。そして、森で撮り溜めた写真を、一枚一枚、丁寧に現像し、引き伸ばしていった。 現像液の中から浮かび上がってきたのは、湊自身も息を呑むほど、幻想的で美しい森の姿だった。そして、その中で、生命そのもののように輝いているヨルのポートレート。それは、ただの風景写真や人物写真ではなかった。一枚一枚に、失われかけている生命の尊さと、時間の重みが、鮮烈に焼き付けられていた。
湊は、それらの写真を持って、町の役場に乗り込み、町長に計画の見直しを直訴した。最初は誰も、彼の話を真面目に聞こうとはしなかった。しかし、写真が持つ圧倒的な力は、次第に役場の職員たちの心を動かし始めた。 湊は、次に町の小さな公民館で、写真展を開いた。「時忘れの森の肖像」と題されたその写真展は、口コミで評判を呼び、多くの町民が訪れた。人々は、自分たちのすぐそばに、こんなにも美しく、神秘的な世界が広がっていたことに驚き、感動した。そして、それを失うことの愚かさに気づいた。
運動は、やがて町全体を巻き込む大きなうねりとなった。開発計画に反対する署名が集まり、地元の新聞もこの問題を取り上げた。ついに、町長は計画の白紙撤回を決定。森は、守られたのだ。
全てが終わった後、湊は、一台の真新しいデジタルカメラを手に、もう一度だけ、あの森へと向かった。森の奥、楠の大樹の下で、ヨルは静かに彼を待っていた。その姿は、初めて会った時と何一つ変わっていなかった。 「ありがとう、湊。森が、喜んでいるわ」 「……俺は、行かなくちゃならない」 「ええ。あなたは、あなたの時間を生きなければ」 ヨルは、優しく微笑んだ。その瞳には、感謝と、愛情と、そして、どうしようもない寂しさの色が浮かんでいた。 「約束する。いつか、必ず君に会いに来る。だから、それまで……」 「待っているわ。あなたが、私のことを忘れてしまっても。あなたの時間が、尽きてしまっても。私は、ずっとここで、あなたを待っている」
湊は、涙をこらえながら、彼女に背を向けた。それが、二人にとっての、永遠の別れになるかもしれなかった。
数十年後。 写真家として世界的に有名になった相葉湊は、白髪の老人になっていた。彼は、人生の最期に、もう一度だけ、あの町を訪れた。そして、ゆっくりとした足取りで、時忘れの森へと入っていく。
森の奥、楠の大樹の下。そこには、何十年も前と全く変わらない、美しい銀髪の女性が、静かに座っていた。彼女は、老人の姿になった湊を見ると、時の隔たりなどなかったかのように、穏やかに微笑んだ。
「おかえりなさい、湊」 「……ただいま、ヨル」
二人は、それ以上、何も語らなかった。湊は、震える手で、首から下げた愛用のカメラを構えた。ファインダー越しに見る彼女は、出会った頃と同じ、いや、それ以上に美しく輝いていた。
カシャン。
静かな森に、優しいシャッター音が一つだけ響いた。それは、有限の命が、永遠の愛を切り取った、最後の音だった。
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